はじめまして。ひろみんごです。
おんせん県おおいた♨️で、9歳7歳5歳1歳の4姉弟を育てるワーママです。
これは、夫と不仲で離婚危機、その上ブラックな職場で必死に働いていた私が、「神と結婚した女」と自称できるまでに変化し、転職にも成功した実話です。
人生最大の失恋と、夫との出会い
夫との出会いは、2011年7月7日の合コンでした。七夕の合コンで、まさか将来の結婚相手に出会うとは、思いもしませんでした。第一印象から、夫のことを「いいな」と思えたのは理由があります。私、この合コンの1ヶ月前に、人生最大の失恋をしておりまして。
東京に住んでたバツイチの彼氏が、親に挨拶に来ると言った日にドタキャンしたんです。大分空港で、乗るといった飛行機で来ず、泣きながら電話をしてみると「寝坊した」と言われました。
彼は「最終便で必ず行く」と言ったので、激怒している父に土下座して、「来るって言ってるから会ってもらえますか?」と泣きながらお願いしました。
でも、最終便の到着口から、彼は出てきませんでした。私は、自殺しようと思いました。
泣きながら、実家と逆方向の自分のアパートに車を飛ばしながら、帰ったら包丁で手首を切ろうか、首を吊ろうか、いっそこのまま事故を起こそうか、と考えているとき、母から電話が何度も掛かってきました。
観念して電話に出ると、「とにかく、一度帰って来なさい!!」と怒鳴られて。
「人生の最期に、親の顔を見ておくか」と実家に帰ると、弟まで呼んでいて、「今から、お父さんの誕生日祝いをするよ」と。実はその日は、父の誕生日の前日だったのです。
私が、自ら命を絶ってしまうかも知れないくらい、傷ついていたことを、家族は感じ取っていて、なんとか、私を元気づけようと必死だったんだと思います。
その時に家族のありがたみを、心の底から感じました。そして、決めたんです。「お父さんみたいな人と結婚しよう」って。
だから、主人に初めて会ったとき、父に似てるなと思って、第一印象からいいなと思えたんです。
夫との結婚
そんな失恋を乗り越えて出会った夫と私は、2014年3月に結婚しました。
授かり婚だったので、9月には第一子が誕生。なんと主人の30歳の誕生日に生まれてきてくれました。我ながら「運命だなー」と思いました。
この頃の私は、「家事は全て女の仕事、すこしでも手伝ってもらえたら、めちゃくちゃありがたいこと」という思い込みがありました。
今思えば、これは自分の親からの刷り込みだったのだとわかります。
うちの父は、外航船の一等航海士。1年間ずっと船に乗り、世界中の海を回る仕事です。
船で運ぶものはその時々で違うのですが、自動車からグレープフルーツまで多岐に渡り、冷凍船に乗ってマグロを運ぶこともありました。
母は、結婚を機に歯科衛生士の仕事を辞め、専業主婦をしていました。父は次男ですが跡を継いでいたので、結婚直後から同居の姑と二人暮らしになった母。
専業主婦とは言っても、祖母や、近くに住み定期的にやってくる小姑たちの、小言や嫌味に耐えながら、父のいない家を一人で守っていましたので、心労は絶えなかったと思います。
父は絵に描いたような九州男児で、私が幼い時に、父が家事をする姿なんて見たことはありません。
一番記憶に残っているのは、黙ってキッチンで洗い物をする母の背中に向かって、昼間から瓶ビールを手酌しながら、罵声を浴びせる父の姿です。母と祖母はいつも仲違いしていましたので、マザコンの父はそれが耐えられなかったのだと思います。母に向かって、ヒステリーを起こして怒っている父の姿が、いつも怖くて、父が怒りそうだなと感じとった時は、弟と二階に上がり、キッチンからは死角になっている、階段の一番上に座り、息を潜めて二人の喧嘩の成り行きを見守っていました。
そんな両親に育てられた私ですから、男の人に家事をさせてはいけない、そんなことをしたら父に怒られる、と思い込んでいたんだと思います。
夫自身は、父と似ている部分もありますが、家事や育児に対する考え方は真逆て、家事も育児も、私よりも上手な人でした。ただ、私の頭の中にある、育った環境の中で刷り込まれた思い込みが、ブロックになって、「家事は全て女の仕事、すこしでも手伝ってもらえたら、めちゃくちゃありがたいこと」と、私に思わせていたのです。
そんな思い込みの中にいた私ですが、長女が6ヶ月の時に勤務先である地方銀行に復帰して、初めての育児と仕事の両立に、必死に頑張っていると、だんだんと身体に不調が現れ始めます。
原因不明の蕁麻疹が毎日出て、何度病院に行っても治りません。朝起きるとすぐに、太ももあたりが痒くなって、腕にも蚊に100回くらい刺されたような蕁麻疹が、たくさん。本当に本当に、毎日続きました。
当時は、地方銀行の係長として、プレッシャーの日々でした。
上司は独身アラフォー女性が多かったです。ろくに数字も取れないくせに、香港に駐在したり、アラフォー女性達より出世が早い上に、結婚して子供までいる私が、相当気に食わなかったのでしょう。
いじめのような仕打ちも受けました。面と向かって、「あなたは何でもかんでも欲張りすぎ!!」と言われたこともあります。(独身で、今でも母親にお弁当を作ってもらっているような、アラフォー女性上司でした)
地方銀行というのは、かなりブラックで、職場はみんな、心の余裕がありません。
新入行員研修では、まず初めに財布と携帯が取り上げられて、外部と完全に遮断されたまま、1週間研修施設に缶詰にされて、銀行員として生きる知識を叩き込まれます。
ノルマはクレジットカード、投資信託や生命保険の販売手数料、個人ローン、カードローン、定期預金など多岐に亘ります。
半年毎に数字が割り振られ、ノルマをこなしてもこなしても、なくならない。
資格試験は年に3〜4回受験。それらの試験は、銀行員としてしか役に立たない試験がほとんどです。受験料は全て自腹。
実は私は、銀行の仕事が本当に苦手でした。接客は大好きでしたが、数字が取れなかったのです。
だから、親戚や友達に頼んで、投資信託をしてもらったり、クレジットカードを作ってもらったり。休みの日に、学校の先生をしている弟夫婦の家に行って、申込書に記入してもらっていたとき、「本当に大変な仕事だね」と、心から哀れむ目で見られたのは、忘れられません。
そんな必死の日々を過ごしていると、身体だけでなく、心にも不調が現れ始めます。自分でも驚くほど元気な時と、「死にたい」「消えたい」としか思えない時があるのです。
私は、元気な時と死にたい時を、手帳に付けるようにしました。そうすると、元気な時が3週間おきに来ていることが分かりました。
自分の中で、これって躁鬱?双極性障害?という疑念が生まれました。
実は、私の叔父(母の弟)が双極性障害で、母からその話を聞いていたので、症状が似ていると思ったのです。でも、それを認めるのは絶対に嫌でした。
なぜなら、母が叔父のことで悩んでいるのを、何度も見てきたからです。そして、そこから2年以上も、私は我慢し続けてしまうのです。
すごく元気で機関銃のように喋りっぱなしの時もあるのに、一言も言葉を発せず寝込んで何も出来ない時がある。その分、家事や育児が全て夫任せになり、夫にとっては、すごくストレスになっていたようです。
私達夫婦は、だんだんと会話が少なくなっていき、しまいには、必要な業務連絡以外、何も話さなくなってしまいました。
朝起きて、一言も会話せずに出勤することもザラでした。
夫からは、3度、「もう離婚する!」と怒鳴られました。
家事も育児もせず、ただ無気力に寝ている妻が許せなかったのです。
3度目のときは、夫が鞄の中から離婚届を取り出して、私に投げつけました。これは、最後通告だと思いました。
その頃には、私たちには、3人の子供がいました。
5歳になった長女に「なんで、とと(お父さん)は、かか(お母さん)にだけ冷たいん?」と聞かれたとき。ああ、このままではいけない、と強く思いました。
そして夫に伝えました。「心療内科を受診したい」と。
その日の夜、子供達が寝静まったあと、夫に話をしようと誘われました。
双極性障害だと思うこと。手帳に2年間つけてみて、規則的に波があることがわかったこと。鬱の時は「死にたい」と「消えたい」しか頭にないこと。でも、躁の時は、無敵で何でも出来る気持ちになること。今は躁だから、病院に行こうと思えていること。
全て洗いざらい、本音を泣きながら伝えました。
この時、私が夫に初めて心の底からの本音を話せたのは、長女の一言がきっかけですが、ほかにも理由があります。
小田桐あさぎさんという人の、考え方に出会ったからです。
当時、彼女はパートナーシップや育児について、発信しているブロガーさんでした。
私が香港に駐在している25歳の時に、当時35歳の都市銀行に勤めている女性と出会いました。
2008年の当時の私からすると、「10歳年上の都銀のお姉さま」は、雲の上にいるような、憧れの存在でした。
そんな憧れの存在である彼女が、2016年に、「宮本アサギ(その当時の小田桐あさぎさんのビジネスネームです)さんの、魅力覚醒講座2期を受けることにしました!」と発信していたのです。
あさぎさんについて、すごく気になって調べてみると、なんと私と同い年の女性でした。
「あの都銀のお姉さまが、私と同い年の子の講座を受けるって、どゆこと!?」と、私は衝撃を受けました。それから、あさぎさんのブログを読み漁るようになりました。
そこに書かれていたのは、「私は、自分の娘にイライラしたことは、一回もない!」という衝撃の言葉でした。自分の子ども達に、毎日イライラしっぱなしだった私は、初めのうちは、「絶対嘘だ!!」と反発するような気持ちを覚えました。
でもそれから、あさぎさんのブログを読み続けるうちに、「もしかしたら、この人の言うようにしたら、本当に私も子どもにイライラしなくなることがあるのかもしれない」と思えるようになりました。
あさぎさんの伝えている内容は、「心のパンツを脱ぐこと」
それが良いパートナーシップ築く、一番の方法だと伝えています。
夫と私の話に戻すと、私は夫の前では、心のパンツを脱げていなかったのです。
泣きながら心療内科に行きたいと伝えたあの日、夫の前で初めて本音を話しました。
「診療内科に行きたいなんて言ったら、何て思われるかわからないから怖かった」と話したら、「すぐ行けっていうに決まってるやろ。早く治さんといかんやろ」と、優しく言ってくれました。
そして、このあとびっくりすることが起きました。夫は、実は2年間耳鳴りが続いていたらしいのですが、この日を境にピタッと止んだらしいのです。
夫も、妻の不調の理由が分かって、二人で腹を割って話し合えたことで、ストレスが緩和されたのだと思います。
あの日から5年近くたちます。
私達は、毎日、子供達の目を盗んでは、イチャイチャしています。朝起きてから一度も会話をせずに家を出ていた私達が、今では、朝起きてから一度も主人にちょっかいを出されずに家を出ることがない夫婦になりました。
そして、夫の家事育児スキルは、まじで神レベルに達しています。どれくらい凄いかというと、市販のルーを使わずにハヤシライスを15分で作れるくらい凄いのです。神でしょ?(笑)
私が不調の間、必死に頑張ってくれたおかげで、家事も育児も、私よりも夫の方が、とても上手になってくれました。このやり方は、無理矢理のスパルタなので、あさぎさんの提唱している、「夫婦で話し合いながらの家事育児の手放し」とは、ちょっと違うんですけどね。
もう一つ、大きく変わったことがあります。
私は、14年間必死にしがみついていた、地方銀行の係長の職を手放して、県庁に転職しました。
「社会人経験者枠」という、公務員試験特有の勉強をほぼしなくてよい、一次試験のうち70%以上が小論文で評価されるという、私にとっては超絶ラッキーな採用方法でしたが、倍率は30倍でした。以前の私だったら、「そんな高倍率受かる訳ない。私は一生銀行にしがみついて生きていくしかないんだよ」と思って、受験する前に諦めていたかもしれません。でも、あさぎさんに出会った私は変わっていたので、自分が県庁でやってみたいこと、いまどんな勉強をしているか、何に興味があるかなど、すべて隠さずに本音を小論文に書き、面接でもありのままの自分の姿を晒しました。そして、見事合格!!なぜ県庁に行きたかったかというと、「インバウンドの力で大分を元気にする」という夢を実現してみたかったからなんです。そういう本音を全部出して、配置されたのは、念願の海外誘致班でした。
転職してすぐの頃は、まだコロナもなく海外出張に行っていて、長い時には5泊6日家を開けることもありました。そんな時でも、子供達の面倒も家事も1人でこなせる主人。(さすがに夕食は、近所の実家に帰ってましたけどね。)本当に神だなぁと思います。逆だったら無理だと思うもん。
今は、銀行の都合なんて考えずに、自分の業務の都合だけを考えて、自分が休みたいタイミングで休暇を取れる、とてもありがたい職場です。アラフォー独身上司たちに変な嫉妬をされることもなく、楽しく働いています。
蕁麻疹が出ることなんて、一度もありません。
こんな風に私が変われたのは、あさぎさんの講座を受けたからです。
あさぎさんに出会わなかったら、きっと今でも毎日蕁麻疹を出しながら、地方銀行で必死に働いて、家に帰れば主人と険悪なムードの中、会話もせずに過ごしていたのでしょう。
もしかしたら、私はもうこの世に居なかったかもしれません。
あさぎさんに出会えて、魅力覚醒講座を受けて、人生が変わりました。
そして、今私は、また一つ大きな変化の中にいます。3月末で退職する予定なんです。これは自分でもかなり大きな決断で、今も震えています。
もし20期を受講する方がいたら、「紹介者ID 199 紹介者名 ひろみんご」と書いてくれたら、全力でサポートしますね!
#PR
コメント